やり直しがきくものの代名詞「ゲーム」
ゲームはやり直しがきくものの代名詞として使われることがある。人生はゲームと違ってリセットできない、と。
だが、ゲームが好きな人は誰しもが異を唱えるだろう。
あたかもゲームをプレイする人全てが人生がリセット可能であることを望んでいるか、あるいはそう信じているかのような印象を与える言葉だからだ。
そもそも、ゲームにもリセット不可能なものはある。
リセットして、セーブポイントから始めたとしても、覆らないものだってある。
好きなところから以前と同じように再開し、以前と同じようにプレイできるゲームなどないはずだ。
言い換えれば、ゲームはやり直しがきかないものなのである。
リセマラは人生の繰り返しではない
とは言え、リセマラというものがある。
リセマラはリセットマラソンの略だ。
ソーシャルゲームなどで、プレイ開始時にキャラクターカードのガチャが無償で引ける。
そのガチャで理想のものが出るまで、ゲームをリセットして繰り返していくというものである。
中には、データ復旧用のパスワードを記録し、一番都合の良いデータを復活させるという手法をとる者もいるらしい。
ポケモンのリセマラ
ゲームを有利に進めるために、わざわざ最初からやり直す。
これは少なくとも「ポケットモンスター金・銀」の頃から続いている文化なのかもしれない。
ポケットモンスターのゲームでは、ポケモンに性別が付与されていて、メスのポケモンはオスと交配させて殖やすことができる。
最初にメスのポケモンがもらえる確率は低く設定されているので、どうしてもメスが欲しいなら最初から繰り返すしかない。
おそらくこれが人々の記憶に最も深く刻まれているリセマラだ。
リセマラは命の軽視につながるか?
このようなリセマラは、一見、人生を最初から繰り返すものであり、命を軽視していると言われても仕方ないように思われる。
だが、一度立ち止まって考えてほしい。
道の同じ場所を踏んで同じ動きで出かける朝が二度とないように、同じ過程でリセマラできるゲーム内人生は二度とない。
つまり、リセマラはゲーム内の人の人生を途中まで進め、優秀だった人以外の命を全て奪い去る残虐行為だと言える。
リセマラは人生を繰り返して失敗を帳消しにする行為ではなく、プレイヤーにとって都合のいい人生を選び取る残酷な営みなのだ。
リセットしても覆らない選択もある
ここで批判があるとすれば、結局、ゲームはリセットできるじゃないかということであろう。
だが、リセマラを終了した後にも朝は来る。
でも、同じ朝は二度と来ない。
リセマラ後に都合の悪いことが起きても、やり直せないと言ったほうがわかりやすいだろうか?
特定のセーブデータからやり直せるゲームであっても、覆らない(リセットしきれない)選択があるのだ。
「ドラゴンクエスト6」のアモス
一番の典型例は恋愛ゲームなのだが、そちらの界隈は全くもって詳しくないので、RPGを例に挙げる。
ドラゴンクエスト6には、特定の選択肢を選ばないと仲間にできないキャラクターがいる。
アモスというキャラクターは、絶対に仲間にできるというキャラクターではなく、ゲームの進行上必須というわけではない。
ある特定の質問に特定の回答をしないと仲間にできないのだ。
アモスが仲間にできることに後から気づいたプレイヤーは、アモスが出てくる中盤までゲームをやり直す必要がある。
質問の回答を間違えたぐらいであれば、質問に答える前のセーブデータから始めればいい。
だが、質問に答えた後でセーブしていれば、二度とやり直すことはできない。
このように、後から間違いに気づいても、後の祭りになってしまうケースも、ゲームにはある。
「ファイナルファンタジータクティクス獅子戦争」のアリシアとラヴィアン
同様に、ファイナルファンタジータクティクスというゲームで、特定のキャラクターがいないと発生しない任意のイベントがいくつかある。
中には、特定のモブ(汎用)キャラクター2人がいないと発生しないものもある。
ゲームのある時点で、アリシア・ラヴィアンという2人の女騎士が仲間になる。
この2人は見た目こそ他の汎用ユニットと同じであるが、PSP版だと彼女らが登場する追加イベントがある。
普通のユニットだと思って除名・クリスタル化*1すると該当するイベントは見られない。
このゲームは長い道のりであり、キャラクターを育成するゲームでもあるため、最初からやり直すということはしづらい。
このイベントも任意なわけだが、イベントをコンプリートしたい、アイテムをコンプリートしたいという欲求のある人にとっては痛手になる。
ゲームはセーブ地点からやり直せるとは言っても、好きな時点からやり直せるわけでもなければ、同じ過程を歩めるわけでもない。
好きなだけやり直せるということはではないのだ。
人生の分岐点はゲームにも存在する
セーブ地点から始めれば、新しくやり直せる。
聞こえのいい言葉ではあるが、リセットは良いことづくしではない。
例えば、ドラゴンクエスト5でフローラを選んだ人が結婚前のセーブデータを残しておき、ビアンカやデボラを選んでやり直したら、同じようにゲーム人生を歩めるか?
そうではない。
選んだパートナーによって会話の内容は少しずつ変わってくるし、戦闘も変化する。
パートナーの良い部分を享受できる一方で、パートナーに選ばなかった人の良い部分は享受できない。
前の人生の良かったところを受け継ぐことができないのが、リセットの運命だ。
このように、リセットしてセーブ地点からやり直すことは人生の分岐であり、人生の都合の悪い部分をなくして都合よく人生を歩み直すことではない。
まとめ
ゲームは
- 一度リセットすれば、前と全く同じように進めることはできない。
- あとで間違いに気づいても、好きなところまで戻ることはできない。
- 戻ったとしても、前の人生の良い部分を受け継ぐことはできない。
セーブデータから辿ったそれはゲーム人生をやり直したものではない。前のゲーム人生とは異なる何かだ。
檀黎斗はパラドを倒せ
人生はゲームのようにリセットできるものではないという教訓も大切だが、ゲームもまた完璧にリセットできるわけではない。
今週の『仮面ライダーエグゼイド』で檀黎斗*2は「コンティニュー」によって都合の良い復活を遂げたが、本来のゲームはあんなに甘くないはずだ。
復活するなら、あの時点に戻ってパラドを倒せ。
*1:マスを使った戦略シミュレーションRPGのFFTでは、ユニットの死亡後、蘇生せずに数ターンが経過すると、二度と復活できないクリスタルの状態になってしまう。マップ上のクリスタルを獲得することで、アビリティの継承などが行える。
*2:ダンクロトはゾンビゲームの力を使って不死になったが、エグゼイドによって細胞の情報を書き換えられた。その後、クロトをよく思わない怪人・パラドの手で命を奪われた。ところが、クロトはバックアップ(いわばセーブデータ)を秘密の場所に残しており、秘密の場所の存在に気づいた人物の手で復活した。もちろん、これはパラドを倒す前の時間に戻ったわけではないので、厳密に言えば、コンティニューとは異なる。